2011年4月22日金曜日

春休み合宿(Ⅰ)

地震・津波被害に加えて、原発事故。最悪のシナリオですよね。


うちは福島第一原発から100km以上離れていて、即座にどうこうすることはなかったですが、風向きと天気次第では、影響を受ける可能性があります。特に地上の風向が北東から北寄りの場合に注意しないといけません。3月15日がその最初の機会でした。14日から15日にかけて前線をともなう低気圧が北日本を通過するのにあわせて地上の風向が南寄りから北寄りの風に変りました。


この日の朝のニュースで、福島第一原発2号機で早朝に爆発があったと報じられたこともあり、状況の変化に注意しないといけません。北茨城の放射線量率の値は早朝から増加していました。即座に健康に影響することはないとされる程度ですが。南茨城では、原発起源と考えられる放射性核種がわずかに検出されました。当時、早朝に起きた2号機の爆発だけに気をとられていましたが、爆発以前に原子炉格納容器の空気弁を開ける操作をしていたようで、このベントと爆発の両方が茨城県内の放射線の増加に寄与していたと思えます。


地震後、1~3号機で原子炉内の冷却水の水位が低下し燃料棒が露出して、かなり深刻な状態になっていることが既に報じられていましたし、素人目にも『これは読めないぞ』という印象でした。この先、何か爆発なり炎上なりが起きて、さらに高い濃度の放射能が大気中に放出され、しかもその時ちょうど降雨をともなう北風の場だったとしたら、、とてもいやなことになりかねません。結果的に、私の住んでいる地域はそんなひどいことにはなりませんでしたが、当時はそういうリスクを念頭においていろんなことを考えざるをえない状況でした。ひとまず子供は春休みの間、実家へ移すことにしました。当時、報道では外部被曝のことしか語られていませんでしたが、子供に対しては、放射性物質を体内に取り込むことによる内部被曝に注意しないといけませんでした。できるだけそのリスクを回避しようと。放射線は時間と共に減衰していくので、回避するなら早めの方が効果的です。それに息子は1~2週間親元を離れてもよさそうな歳になったし、いずれにせよ良い機会でした。

Yodel-Ay-Eeee-Oooo♪ 

2011年4月18日月曜日

臨時給水

早めに書留めとかないとと思いつつ、またのびのびに。。

地震当日(3月11日,金)の夜は、沿岸部の悲惨な状況が伝えられるのをテレビ・ラジオ・インターネットで見て、これは大変なことになったと。。
余震が度々(というか休みなく)やってきて、大地震の後ってこういうものなのかと思ったり。

翌朝、水道が止まっていました。飲み水を汲み置きしとくべきでした。お風呂には残り水があったので、トイレなどは当面問題なさそうです。そのうち、ご近所のママさんから臨時給水の情報をいただきました。市のホームページに載っていると。被災地の情報ばかりに目が行って、肝心なところを見落としていました。それにしてもママ同士の連帯って力強いもんだなぁと思うわけです。早速、ペットボトルやらヤカンやらバケツやら、あるだけのものを用意して近くの公園にいきました。すでに数組が待っていて、あとからあとから近隣の人たちが集まってきます。大分集まってきた頃、女性の方がひとり「列になって並んで待ちましょう」とみんなに声をかけました。なるほどそうだそうだ。みんな従います。ホームページに載っていた時刻から1時間半くらい遅れて、市の職員の方が数名来て給水が始まりました。臨時給水の経験といえば、小学生の頃に渇水で断水した時以来でした。自宅から公園までそう遠くない距離だけど、自転車の前のかごやチャイルドシートに、水を汲んだペットボトルやらを積んで帰りました。

ご近所では瓦が落ちて散乱しているお宅も。

うちに帰って来て初めて気づきました。ダイニングの照明がこんなことに。

しばらく前にゲットしていたpinoスイートポテト、かなりうまかった。

季節は着々と進行中。

飛行機雲を見て、少し勇気をもらったり。


マスメディアを通して見聞きするのは悲惨な状況ばかり。それでも決まった時刻に沈んでは上ってくる太陽。少し滅入っている心を定点に引き戻してくれます。

お水が出ないので、サランラップをお皿にかぶせて節水。


大分、記憶が遠くなってきました。

Yodel-Ay-Eeee-Oooo♪