2011年12月4日日曜日

やまは家族で -車山-(Ⅱ)

「霧ヶ峰(1925m) 妙な言い方だが、山には、登る山と遊ぶ山がある。・・・、後者は、歌でもうたいながら気ままに歩く。」
日本百名山,深田久弥,新潮文庫


ほんとに、そんな感じですね。今回は車山だけでしたけど、いつか隈なく歩きたい。


午前10時20分、歩き始めました。


ピーカンです。青空に次々と飛行機雲。

乗鞍岳~穂高連峰

中央アルプス




夜の間にしっかり冷えてたんですね。立派な霜柱が。

およその分類として、霜柱を見つけてザクザク踏みつけて面白がる人と、そっと観察する人の2つに分けるとすれば、妻と息子は前者、私は後者です。こんなに繊細な造形を踏みつけるなんて、私にゃできません。




八ヶ岳と富士山。このとり合わせ、なんて美しい。

見とれているところへ、「パパ~・・」と息子。恒例のお土産タイムがやってきました。この美しい景色のなか、自然の摂理に身をゆだねる息子、うらやましい。。おっきいのいただきました。もちろんお持ち帰りです。お土産ですから、大自然の。




常念岳~立山~鹿島槍ヶ岳と美ヶ原

数少ない私の写真↑。あまりの好天に、内心かなり浮かれています。

実は、この後、浮石に足をとられ転倒、左膝を強打、危うく胸も打ち付けるところでした。おまけにシャーベット状の泥雪で手袋を濡らす始末。なんという失態。足元も良く見ずにパチパチ写真撮ってるから。。大事には至りませんでしたが、とても反省しています。






子供は雪がうれしくてたまらない様子。

↑エベレストを作ったのだとか。栗城隊長の影響だ。


駐車場を出てから1時間20分、ゆ~っくり歩いてきました。午前11時20分、車山山頂に到着。


富士山、見れば見るほど、きれいな姿です。



そういえば、今年の山初めは金時山()でしたが、その前の日の夕方に、キャンプ場から天体望遠鏡で富士山の山頂付近を見ていて、富士山測候所を捉えることができました。


富士山をはっきりと望むことができる霧ヶ峰。その麓、信州諏訪に生まれた作家新田次郎(藤原寛人)は、かつて富士山測候所で交代勤務をし、その後、富士山レーダーの設置に携わった、その道のプロです。富士山レーダー設置の様子を描いた「富士山頂」(新田次郎,文春文庫)を以前読んで感動しました。台風や大雨の監視に活躍した富士山レーダーですが、時の流れとともに役割を終え、新たに設置された車山レーダーと牧ノ原レーダーに、1999年、その任を譲ります(気象業務はいま2009,気象庁,研精堂)。

なんと、自分の手がけた富士山レーダーの後任というべきレーダーが、故郷のお山に建つことになろうとは、ご本人は想像できたでしょうか。。


気温0.9℃、風は十分に弱く、日当たり良好。のんびりできました。

根子岳・四阿山・湯ノ丸山


いい眺め。車の運転さえ厭わなければ、関東平野をわたって数時間で来られてしまう。便利な世の中。車山に限らず、山頂付近まで立派な道路がついていたり、ロープウェイやケーブルカーを利用できるところが全国にたくさんあって、手軽に山に入り、ハッピーになって帰って来られる。なんという幸せ!

蓼科山と白樺湖



最近、随筆集「白い野帳」(新田次郎,朝日新聞社)を手にする機会がありました。その中に、新田次郎の、霧ヶ峰にまつわる思いがつづられています。

「・・・諸氏の奮闘もむなしく、すっかり変ぼうした霧ヶ峰には、キスゲが一面に咲いていた。この強ジンな花だけは踏まれても踏まれても夏になると花を咲かせるのだ。これだけが霧ヶ峰のなごりの花であろうか。」
ほろびゆく自然(白い野帳,新田次郎,朝日新聞社,1965.03)

幼いころ遊んだ霧ヶ峰に、スキー場ができ、ホテルが建ち、道路がひかれ・・・。手つかずの頃を知る人にとってはやりきれない思いだったのですね。




「霧の子孫たち」(新田次郎,文春文庫)のあとがきでは、

「霧ヶ峰には子供のころから親しんでいて、故郷即ち霧ヶ峰と言っても嘘でないほど、霧ヶ峰と私は切り離すことのできない関係だった。・・・その霧ヶ峰に有料自動車道路ができた。・・・なぜ貴重な自然や遺跡を破壊してまで、観光目的の有料自動車道路を造らねばならないのだろうか。」

とあります。単行本が1970年に発行された小説「霧の子孫たち」。
・山の自然環境や文化遺産を破壊していく観光開発
・入山者のモラル欠如
これら2つについて、霧ヶ峰に限らず、日本全体の問題として警鐘を鳴らしています。


時はくだり、今や平成の世。

いつも便利な道路を利用して、軽々しく山歩きを楽しんでいる自分が、いったいどれだけの環境負荷にあたる存在であるか知りません。
とはいえ、山で接する自然のことを、薄っぺらな知識を総動員しながら、息子に噛み砕いて説明してやることが、将来、彼自身がその中で生きていく自然環境を保ち、改善していく営みのために少しでも役立つだろうか。
私自身が山歩きをすることで如何に充実した気持ちになるかを、いま息子の前で晒して見せることは、自然環境が彼自身にとっても不可欠であり、ミスミス失われるべきものではないことを、いつか思い起こさせるきっかけになるだろうか。
「お前が結婚して子供ができて、一緒に山歩きをするようになったら、お父さんがやっているようにお前も、お前の息子のう〇こを袋につめて持って帰ってやれ。」などと言いながら、山道の傍らで子供の下の世話をしていることで、彼自身が自然との折り合いをつけながら生きていくための作法を身に付ける手助けになるだろうか、などなど浅はかな期待をかけていたりします。


美ヶ原の後ろに鹿島槍ヶ岳・五竜岳・白馬岳


もしも・・・

もしも、新田次郎先生本人がご健在で、もしも、、車山の山頂でばったりお会いできたりしたら・・、
『軽薄な連中がのこのこやってきた』と一瞥もくれずに去っていかれるでしょうか・・ |||_ _)
いやいや、心優しい偉人は、『しょうがない連中だなぁ』と思いつつ「霧ヶ峰は初めてかい?ゆっくりしていきなさい。ここも昔は、もっと良かったんだが・・。」なんて優しい言葉をかけてくださるのでは。。うん、そうに違いありません。





昼食もいれて1時間半ほど山頂で過ごしました。

御嶽山


乗鞍岳


白く輝く北アルプス、なんとも言えず美しい八ヶ岳の起伏、そして、均整のとれた富士山、とても印象的でした。

赤岳・阿弥陀岳・権現岳



山頂から下り始めた時、車山の斜面を滑昇する気流に乗って、グライダーがほぼ目と同じ高さに浮かび上がってきました。ゆったりと、しかも軽やかに、旋回しながら滑空していきます。いっとき見とれていました。



「そのころ、ぼつぼつグライダー熱が流行して来て、私もそのメンバーに加わった。・・・三級の免状をもらって、いよいよ中級の訓練に入って、まもなく操縦を誤って、機を大破させ、きさまは飛行機をやる能力なしと判定された。」
カバンの掛け方(白い野帳,新田次郎,朝日新聞社,1965.03)

ちょっとかわいそうな感じですが、新田次郎先生もグライダーやってたんですね。どこで練習してたたんだろう、霧ヶ峰でやってたのかな。。そうそう、霧ヶ峰のグライダーの創始者というべき藤原咲平(元東大教授)は、新田次郎の伯父にあたる人なのですね。

「私の伯父の藤原咲平もさかんに随筆を書いた。どうも伯父さんの随筆を読んでいると科学へ引張りこもうとするごういんさが見えて来てこまる、なんとかならないものですかねと伯父にいったことがある。」
科学者の書いた随筆(白い野帳,新田次郎,朝日新聞社,1965.03)

笑える。。(あいや失礼・・)




次回、なんちゃってデジスコ写真集。


乞うご期待!

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